「阿曽藍人展 Modern Primitive」は本日終了しました。会期中ご来店くださいました方、ネットを通じてお選び下さいました方、皆様へ厚く御礼申し上げます。
写真1枚目は阿曽さんの野焼きの様子。焚火というよりもキャンプファイヤーのような火の大きさです。今は落ち葉を燃やすことも条例で禁止されている所もありますから、気軽に庭で焚火をするのも難しい時代です。
人類が火を使い始めたのは50万年前など諸説ありますが、少なくとも12万5千年前の遺跡からは証拠が見つかっているそうです。縄文土器が1万6000年前からと言われますから、その遥か昔から人類と火の関係はあった訳です。猿人と人間を分ける火の記憶は、きっと人々の深層に残っているのでしょう。
野火を使う土器作家に限らず、陶芸家が火によって高揚するのは、人の中に眠る野生が呼び起こさせるのかもしれません。あるいはその願望が特に強い人が、陶芸という職を選び易いという関連性もあるのかもしれません。
写真3枚目は、会期初日に来店してくれた、元祖・土器作家の熊谷幸治さんと阿曽さんのカット。お互いに土器を扱う思いを語り、共感する部分と相違も分かり有意義な対面になりました。土器を生業にする作家は少数だと思いますが、考えて見れば李朝や美濃を作る作家がたくさんいるのと同様に、今後もいろいろな考えをもった土器作家が現れてしかるべきなのかもしれません。
阿曽さんのモダンな形をした土器を如何に伝えるか。難しい点もあります。考古的な見地から伝えるのではなく、その普遍性を踏まえながら現代の意味を解く。まだ市場で未知数のものを如何に伝えるか。このような古典と現代の要素を合わせた作品を、既成価値を踏まえてその転換を知らしめるのか。あるいは既成価値の範囲でその意味を解くのか。如何に骨董のような感覚、あるいは洗練されたインテリアグッズのように伝えられるのか。毎回のように試行錯誤します。
ただモノをみてもられば分かる、という態度では伝える側の責任を放棄しているように思いますし、一方で言葉にすることで一面的な見方に限定したり敷居をあげてしまう危険性もあるでしょう。そもそもSNS活況の昨今、ビジュアル中心の時代に言葉すら必要ないのかもしれません。無駄な言葉は常に虚空を掴もうと足掻いているようにも思います。しかし言えるのは、良いものはいずれ伝わる、という事実です。言葉も必要なく、その存在が多くの人の感覚に昇華されるまで続けていくことが大切です。
阿曽さんの個展も今回2回目を迎え、その支持者が国内のならず海外からの評価にもつながっていることを実感する9日間でした。この度は作品をお選びくださいました皆様に御礼申し上げます。遠い遠い火の記憶を宿した作品が、皆様の心の奥の野生に届くことを願っております。どうぞこれからも阿曽藍人さんの活躍にご注目ください。
![_d0087761_17061223.jpg]()
![_d0087761_17061217.jpg]()
![_d0087761_17061249.jpg]()
写真1枚目は阿曽さんの野焼きの様子。焚火というよりもキャンプファイヤーのような火の大きさです。今は落ち葉を燃やすことも条例で禁止されている所もありますから、気軽に庭で焚火をするのも難しい時代です。
人類が火を使い始めたのは50万年前など諸説ありますが、少なくとも12万5千年前の遺跡からは証拠が見つかっているそうです。縄文土器が1万6000年前からと言われますから、その遥か昔から人類と火の関係はあった訳です。猿人と人間を分ける火の記憶は、きっと人々の深層に残っているのでしょう。
野火を使う土器作家に限らず、陶芸家が火によって高揚するのは、人の中に眠る野生が呼び起こさせるのかもしれません。あるいはその願望が特に強い人が、陶芸という職を選び易いという関連性もあるのかもしれません。
写真3枚目は、会期初日に来店してくれた、元祖・土器作家の熊谷幸治さんと阿曽さんのカット。お互いに土器を扱う思いを語り、共感する部分と相違も分かり有意義な対面になりました。土器を生業にする作家は少数だと思いますが、考えて見れば李朝や美濃を作る作家がたくさんいるのと同様に、今後もいろいろな考えをもった土器作家が現れてしかるべきなのかもしれません。
阿曽さんのモダンな形をした土器を如何に伝えるか。難しい点もあります。考古的な見地から伝えるのではなく、その普遍性を踏まえながら現代の意味を解く。まだ市場で未知数のものを如何に伝えるか。このような古典と現代の要素を合わせた作品を、既成価値を踏まえてその転換を知らしめるのか。あるいは既成価値の範囲でその意味を解くのか。如何に骨董のような感覚、あるいは洗練されたインテリアグッズのように伝えられるのか。毎回のように試行錯誤します。
ただモノをみてもられば分かる、という態度では伝える側の責任を放棄しているように思いますし、一方で言葉にすることで一面的な見方に限定したり敷居をあげてしまう危険性もあるでしょう。そもそもSNS活況の昨今、ビジュアル中心の時代に言葉すら必要ないのかもしれません。無駄な言葉は常に虚空を掴もうと足掻いているようにも思います。しかし言えるのは、良いものはいずれ伝わる、という事実です。言葉も必要なく、その存在が多くの人の感覚に昇華されるまで続けていくことが大切です。
阿曽さんの個展も今回2回目を迎え、その支持者が国内のならず海外からの評価にもつながっていることを実感する9日間でした。この度は作品をお選びくださいました皆様に御礼申し上げます。遠い遠い火の記憶を宿した作品が、皆様の心の奥の野生に届くことを願っております。どうぞこれからも阿曽藍人さんの活躍にご注目ください。


